できない
だいたい火曜日はいかなきゃいけない授業が多くてそれに行かなくて不安になるのでブログを更新する。
最近というかここ一年間くらい「できない」ということについてよく考える。できないということは不可能という意味なんだろうけどなんだか分からなくなってくる。
僕は前の記事で言ったように単位が全然とれてないので留年する。「僕はみんなと同じように単位を取ることができないから留年します」なんていう言葉を聞くと舐め腐っているようにしか聞こえない。「いや頑張れや」と言いたくなる。少なくとも親にはそういわれた。
でも足が遅い子に「もっと速く走れ」というのはひどいことのように感じる。これはなぜ。もっと言うと公共の場で足が不自由な人が流れを滞らせている時に「早く行けよ」というのはかわいそうだと感じる。
その「足が遅い子」と「体が不自由な人」は許されるのになぜ「単位を取るのが遅い人」は許されないんだろう、とかを考えていた。ていうか誰に許されるんだ。
昔お姉ちゃんが言っていた話が今でも頭から離れない。
お姉ちゃんの友達の話で、その友達は深夜外からうめき声みたいな音がするせいで眠れなくて困っていたらしい。それで大家さんに相談したら、近所に我慢できなくなると発狂してしまう病気の人が住んでいるからだと言われたそう。
その話を聞いたお姉ちゃんは「で?それはしょうがないねー。で済まされるの?」と思ったらしい。
もしその騒音が近所で工事をしているからとかいう理由だったら特に何も感じないが、これの原因は「夜中に静かにできない人」だからしょうがないことなの?と感じてしまうらしい。
僕は当事者じゃないから下手なことは言えないけど、はたから見る限りではそれはしょうがないことだと思っていた
僕はそのころ学校が嫌になり始めていて「学校にいけない病気だと医者に診断してもらえれば学校に行かなくてもしょうがないになる」とか考えていた。けど僕のお姉ちゃんはそれをしょうがないとはしないんだと思う。僕のお姉ちゃんは僕よりも「できない」の条件が厳しいんだなと思った。
こういうことを考えている時、高校の教科書に載っていた「パンの話」を思い出す。
吉原幸子さんの「パンの話」を載せておきます。
まちがへないでください
パンの話をせずに わたしが
バラの話をしてゐるのは
わたしにパンがあるからではない
わたしが 不心得ものだから
バラを食べたい病気だから
わたしに パンよりも
バラの花が あるからです
飢える日は
パンをたべる
飢える前の日は
バラをたべる
だれよりもおそく パンをたべてみせる
パンがあることをせめないで
バラをたべることを せめてください
考察みたいなのは調べたら出てきます。
結局話が全然まとまらなかった。僕は文章をまとめることができない人だから。